本来無一物

本来無一物

時に極端に、時にふらふら〜と生きている日常を綴ってます。

勘弁してよ、とは言いたくない

困りごと勃発です。
お金が絡むと人は変わるといいますが、真実ですね。
病気と金問題は切り離せない問題なんでしょうか。
精神疾患は強迫観念があるから過剰に反応してしまうだけなんでしょうか。
私は病気の時お国様(失業保険)と自分の貯えで生活していたので貧乏ではあったものの、餓死するほどではなかったので気持ち的には裕福でした。
こう思うくらい私の極貧と普通の境界線は飢えに苦しむか苦しまないかになります。
それは私が子供の時に夕飯に困ったからの経験でしょうね。
今でも母が小銭を集めて私たち子供の夕飯を買ってくれたことを思い出します。
少しでも私たちが満たされるように自分は箸をつけなかった母は充分子供思いだったのだと今は思います。
でも当時はなんで母も食べてくれないのかと不満に思っていたのですけどね。
大人には大人の、子供には子供の心情があるものです。
お金から解放された母は今活き活きと過ごしています。
そんな母を見てきたからこそ、身の丈にあった生活をしたいと思うのでしょうね。


お金の催促はいつも苦しい思いをします。
今まで何度も貸して返ってこなくてもパニックを起こされるよりはマシだと思って渡してきた。
でも今回はさすがに内容が内容だったので断った。
頑張って、断った。
きっと近くにいたらまたキレられることにうんざりして渡してしまったんだろうな。
自分が薄情だと思う。
でもお金が必要な時、必要じゃない時の判断は幼少期から磨かれたのか大きな間違いは今のところない。
幸運なことに私は幼少期に親族以外でお金に厳しい人に出会えた。
私の場合裕福家庭から極貧家庭へ移行したから、普通はもっと苦しいものだと思うけど、その人の言葉があったから受け入れられたのかもしれない。
単に子供に決定権はないから従うしかなかっただけかもしれないけど。
決定権がある今、自分の判断でお金を貸すし貸さなかったりします。
いつか判断を間違ってしまうんじゃないかって怯えている。
お金を催促されるたびに、そう思う。
でも子供の頃の貧乏体験は、冷静な金銭感覚を身に着けてくれました。
それを思えば貧乏も得るものがありました。
今回も判断を誤らなかったことに本当に安心しました。

 

貧乏を経験するにも年齢の問題や環境もあると思う。
私はお金を理由にした挫折はなくて、惨めな思いはしたけどやっぱり大きな問題は空腹かそうじゃないかの方が大きくて。
でもこれが中学生くらいだったらこうは思えなかったんじゃないかな。
周囲の目とか気にしちゃう多感な時期だから、人と同じ生活ができないっていうのがものすごく苦痛だと思う。
私は小学校低学年に貧乏突入したから、服とかに困ったことを覚えている(大人用のジーンズをはいてた)。
だから中学生になった頃は貧乏に慣れきっていたし、むしろ毎日制服を着れば服の問題から解放されてラッキーだった。
タイミングってあるよね。


もっと頑張れ、って言いたいけど、今が辛い人には言えない。
かといって勘弁してよ、とも言えない。
どっちつかず。
今の自分にできることはなんなのかわからないです。