本来無一物

本来無一物

時に極端に、時にふらふら〜と生きている日常を綴ってます。

食べるの大好き

私の生活の中で『食』は重要事項の一つです。

食べることが大好きだからね。

上京した時から自分の食事は自分で調達だったので、好きなものを好きなだけ食べる生活を送っています。

だから本当はたくさん、いろいろ食べたいけど、私結構貧乏な時もあったから。

米があることへの感謝って大きいんです。

よく子供が母親の作った料理に対して『え~またこれ~』という場面があります(配偶者が言う場合もありますね)。

その気持ち、とてもよくわかる。

いろんな料理、好きな食べ物をお腹いっぱい食べたいもんね。

だけどね、そんな言葉を発して険悪になる空気の方が、私は耐えられない。

貧乏なのは母のせいでも(もちろん父のせいでも)ないのに、質素な食事を用意しては不機嫌な顔をされてしまうのは大人になった今ではかわいそうだったと思います。

私の母はお金がない時代も子供にカップ麺を食べさせなかった人だから(カップ麺が割高っていう理由もあるだろうけど)、そういうところは感謝だなぁって思います。

母の味っていうのが思い出として残りますから。

 

貧乏を経験したことによって私の幸せのハードルはたぶん人より低い。

ちょっとしたことで幸せだなぁって思うんです。

本当、引かれるくらい貧乏だったんですよ。

シャワーが温かいのが幸せ。

家が綺麗なのが幸せ。

毎日ご飯が食べられる幸せ。

天気が良いのが幸せ。

気温が快適なのが幸せ。

幸せって本当身近に溢れています。

そう感じられないと困難な環境=不幸になってしまう。

私の場合体を壊したこともあって、健康でいられることの幸せっていうのも噛み締めています。

だからって苦痛を帳消しにできるわけじゃないんだけどね。

でも不幸だ~って思うよりは幸せって思った方が得だなって周囲の環境、自分の経験から学びました。

 

話を戻すと、そこまで食を重要視している私だけど案外質素な食事が好きなんですよ。

卵かけごはん、納豆ご飯、納豆のお粥、佃煮のお粥、塩おにぎり、ちょっとリッチに炊き込みご飯。

これ単品でも意外と満足できると思います。

学生時代は自分で朝食を用意するという暗黙のルールがうちにはありまして、私の朝食はもっぱらご飯、味噌汁(これは母が用意してくれました)、ハムエッグでした。

ハムのかわりにベーコン、ウインナーの時もあったし、目玉焼きだけのときもあった。

これが大満足だったんだな、私は。

高校生になると母が毎日おにぎりを作ってくれて、それが朝食になりました。

6年以上代わり映えのない朝食で過ごせたのだから案外質素な食事もストレスなく受け容れられると思うんですよねぇ。

だから非常事態でもお米さえあれば本当に生きていけるなって思います。

 

貧乏だったことも、自分で朝食を用意したのも、いい経験でした。

ちなみに私に料理のセンスはなかったらしく、『よし、美味しい料理を作るか!』って気持ちには一ミリもなりませんでした。

楽で満たされればいいのよ。