本来無一物

本来無一物

時に極端に、時にふらふら〜と生きている日常を綴ってます。

ちょっと違う。

障害者を産む決断をしたご夫婦の記事を読んで思ったこと。

 

私の姉は障害者です。

言葉は問題なく話せますが重度の障害を持っており、障害者の等級で言うと一級です。

身体障害者ですけど、知的障害もあります。

小学生くらいの知能をした姉がいる感覚です。

だから小学生だった時は、あまり差が感じられなかったんですよね。

姉は体が不自由だ、くらいの感覚。

父は育児に無関心で、自然に母は姉に付きっ切り。

寂しかったですよ、正直。

両親の愛情は私には向かないんだな、って期待しなくなったり。

今振り返っても、こじらせてしまった子供だと思います。

でも今でも、なんだかんだ家族として関わることがあるのは愛情を感じたからでしょうね。

大人になった今思っても、姉に対して妬ましいって感情はない。

美化するわけでもなくて子供のときからそう。

羨ましいな、なんで私には誰もいないんだって悲しくなることは多々あったけど、姉を妬ましく感じることはなかったと思う。

もしかしたら無意識に姉を可哀想な子と見下していたのかもしれない。

でも一番は、私は父同様姉の介護にまったく関わってこなかったっていうのがある。

よく兄弟姉妹に障害者がいる人が、『現実は違う』『地獄』『両親はきょうだい児の苦労を知らない』とか言うけど、それは感情移入しすぎちゃったのかな、って私は思う。

結構ほっとかれて育った私は姉は姉、私は私って割り切って生きてる。

父親は全く分かっていないけど(だから亀裂のある親子関係になってしまった)、母は私の心情はわかってると思う。

子供時代放っておいて、それで姉の面倒は見てほしいとは言えないんだと思う。

大人になって私は母を尊敬する。

よく一人で頑張ってきたね、って。

そりゃ他の子供には手がまわらなくなるし、もしも私が親でもそうなると思う。

時々、本当時々、私のことを大事にしてほしかった!って思う気持ちも湧きあがらないでもないんだけど、やっぱり私は母が偉いと思う。

だけどそれはそれ、これはこれ。

精神的にも金銭的にも、私は姉のために人生を歩む真似はしない。

昔は姉のために生きると考えてたよ、本気で。

でももうそれは無理。

私は私というアイデンティティがあるから。

こう思った方が姉とも仲良くできるよ。

あくまで私はね。

辛いと思う人はそれなりの環境に身を置かれていたんだと思うし、それは私には想像できないこと。

ただ私が何が言いたいのか、って、きょうだいだから面倒見なきゃいけないというわけではないってこと。

私は頼れるところは頼るつもりです。

それは今から母と話しあっているし、母はやっぱり情に流されて行動できないところがあります。

でもそれでは親子共にいい結果にならない!とケアマネさんと相談したり、面談したり。

家族だと自分が犠牲になれば・・なんて障害者のためとは思えない『甘やかし』をする可能性もある。

している方には想像できない葛藤があるんですよ。

でも客観的にみる人も必要だと思います。

ちゃんと愛情を与える人、プロの人、中立の立場の人がいれば、一番理想ではないでしょうか。

私が中立かはおいといて、姉には愛情を注いでくれる人とプロの人がいるのは事実。

できれば中立で見守る立場にいたいとは思うけれど、今のところ父と同じ無関係と言わんばかりの態度。

でもね、時々夢に見るんですよ。

身体が不自由であっても、母を独占してても、大好きな姉であることには変わりない、って。

父も同じなんでしょうか・・・。

 

 

私は無情かもしれないけど、それでも誕生日を祝ったりしますよ。

父親は私の誕生日を知らないけど、姉は覚えてくれてます。

今年だって祝うつもり。

そんな関係を築ける私は幸せなんでしょうね。

 

だからね、最終的に言いたいのは、障害のある家族がいるからって必ずしも不幸とは限らない!って話。

親に覚悟があればいいだけの話なんです。

その点、やはり私の母はすごいと思います。

私は人へのボランティア精神に惹かれるんですけど、そういうのってまずは姉のために動くことかなって思います。

まだ20代で見えていないこともたくさんある。

本当の大変さはこれからが本番だと思う。

だからこそ人間としての在り方を問われている気がする。

何かしてあげているではなくて私自身の問題として。

何通りも道はあるから、後悔のない道をね。