本来無一物

本来無一物

時に極端に、時にふらふら〜と生きている日常を綴ってます。

一人じゃ気づけない

あまりの寒さに(かなりの冷え性)電気ストーブを購入。
無駄なことにお金使ってるかも・・・と頭をよぎったけれど、風邪を引いたら元も子もないので割り切る。
大量に買ったホッカイロ(実はホッカイロで冬を乗り切ろうと思っていた)たちは、朝の寒い段階で使わせてもらおう。
夜は寝るだけなのに10時間ほど温かいホッカイロを使うのはもったいないし、つけたまま寝ても火傷するだけだし。
夜やどうしても寒い日中に使わせてもらいましょう。

さて、寒くなり始めた今日この頃、私の体調は浮いたり沈んだり。
現在も通院して経過を見ているのだけど、心のどこかでもう少し休みたいっていう本音がちらつく。
でも貯金も減る一方だし、ただ一日を過ごすことが退屈になり始めてきたのも事実。
先生に仕事を再開したい旨と現状を伝えたら、年内は休んでもいいと思いますよー、との答え。
私が望んでいた言葉だったけど、先生は現実を突きつける。
『毎日一回は外に出て、9時から15時の間で動けるように慣らしていきましょう』
その時はっとした。
実はもうすっかり元気になったのではないか?と内心思っていたからこそ、休んでいる現状が後ろめたかったのだ。
でもそう思いながらも今の私が朝から夕方までの時間を外で過ごすことができるだろうか。
家の中でほぼ一日を過ごし、時折散歩して、ヨガをして。
一人なのだから元気に回復して当然だった。
それがまた社会に溶け込み、やる気いっぱい元気に仕事!というのは想像できなかった。
4時間ほどの外出でぐったりし、疲労感や倦怠感に苛まれる今、復職は現実的ではない。
その現状を理解していないのに後ろめたい、退屈という理由で仕事をしようとしていた。
そうだよなぁ、って。
なんでも極端な性格だからすぐ仕事って考えちゃったけど、そうやって自分を振り回したせいで今こうなってる。
自分で自分を振り回さないことを知らなくちゃいけないよなぁ。
自分自身を見る、って本当に難しい。
こんな時本音を言える人がいたらポンと簡単に客観的に答えを教えてくれそうだ。
一人の方が楽だけど、一人では気づけないことが絶対ある。
そういう意味でやっぱり人は一人で生きていけない生き物なんだなぁとなんとなく思う。
とりあえず言われた通り社会に溶け込む練習から始めるとします。

 

私に何ができるんだろう

断捨離、断捨離と思いつつ、やっぱりこびりついた執着はなかなか落ちることなく、でも少しずつ綺麗になっているように感じます。
現在はいらない通帳やクレジットカードを解約している最中です。
おまけにネットのいろいろな手続きも解約中。
服、家具も引っ越しに伴ってだいぶ捨てたものの、現在残っている物たちはボロボロなものも多い。
電気ストーブは家族に譲ったものの、新しい住処のエアコンは温風が出ないため買いなおしました。
本棚にある本、DVDもいずれは・・・と思いつつ手放せません。
もともと禅に惹かれていたけれど、心身を壊し療養中になった今、素人ながらに禅の思想を生活に取り入れています。
要らないものは捨てる。こだわりもすてる。
全部捨ててしまえー!!とばかりに思うのけれど、現実はそこまですっきり解放されていません(笑)
寒さは辛いし、空腹で倒れそうでもないけど、三食しっかり食べてるし(むしろ食べ過ぎているから問題)、ボロボロの服を着たら人からどう見られるだろう、そろそろ新しい服がほしいって思ってしまう。
けれど不満でいっぱいだった我が家、今のところ安心できる空間に感じられるようになりました。
エアコンの温風は出ないし、換気扇とトイレは入居してすぐに壊れたし、床は痛みが早いし、結露は毎朝拭いてもすごいし、招かれざる客(G)は出るし、真夜中のピンポンもあるし。
お隣さんのくしゃみが聞こえるほど壁も薄い!
不満たらたら~復職したらすぐでてってやる!・・・と思っていたけど禅の思想を取り入れてから、そしてある出来事があって心の変化があった。
私の住んでいる地域にはホームレスがいるんだけど、そのホームレスが寒空の下、コンビニの肉まんを握りしめていたことがあった。
その時、胸が苦しくなったんだよね。
寒くても雨風をしのぐことも飢えをしのぐこともできない。
人間にとって最大の欲求すら叶えることができない人間がいることを目の当たりにする瞬間。
今自分の置かれている状況の有難さを痛感する。
屋内にいて毎日お風呂にも入れてご飯は三食食べ、たっぷりの睡眠をとることができる。
当たり前の権利と思っていたものが当たり前ではありませんよー、って時々私に気づかせてくれる。
自分とは関係ない、って思うことができない。
だれしもそうなる可能性があるのが今の日本だと思う。
その時ただただ自分の置かれている状況が有難くて、自分にできることはなんだろうとしばらく考えていて思いついたのが家族に会うこと。
今は身近の家族に恩を返していくしかない。
貯金を崩して生活している身としては遠方の家族に会いに行くのはきついけど、何となくそうしなきゃって思って自分でも驚くくらいハイペースで手続きをしてしまった。
病気療養中なのだから自分を甘やかしていいでしょ、みたいな気持ちもあったのは事実。
でも恩を返したいっていうのも本当の気持ち。


私にできることって何だろう。

1440

ケビン・クルーズさんの「1440分の使い方」を読んだ。
彼は忙しさのあまり、無意識にパトカーを追い越すという暴挙を行った人物(*複数の数百万ドル規模の企業の創業者)である。
毎日必死になって働いても時間が足りない状態。
当然家庭も仕事もうまくいかない状況で彼は「1440」と書かれた紙を貼るところから変わる。

1440


それは1日は1440分であるということ。
するとこれまで常に部下から投げられていた相談が減り、本当に大事なものばかりが彼に届くようになる。
1440分の大切さを皆が理解した瞬間である。


この本を読むことで忙しさから解き放たれる…という風に書かれているけど、私は忙しいままだったな(笑)
だけどこの本が駄作かと言うと決してそうではなくて、ケビンさんの人柄(もしくは翻訳さんの才能)が良いのかとても素直に受け止められるように進行し、理解しやすい内容になっている。
ケビンさんの謙虚さのおかげで日本人は受け入れやすいのでないだろうか。

特に私が腑に落ちたのはtodoリストをやめなさいと書かれていたこと。
え、書かないと忘れちゃう…と思っていたら彼はやらなければいけないことをスケジュールに入れてしまうと言うのだ。
これなら納得!
TODOリストは書いても結局達成されないことも多いけど、スケジュールに入れてしまったら達成される確率が格段にあがる。
だからと言ってなんでもかんでもスケジュールに詰め込めばいいかと言うとそうでもない。
スケジュール管理の大切さもまた語ってくれているので、TODOリストと同じ罠にははまらないようになっている。

お金、時間、ワークライフバランス
この3つに悩む人が多い中で、解決策をさらりと教えてくれる。
そんな一冊。


時間の使い方がわからず、損をしている気になって焦る今、私に必要な一冊。

 

 

物欲が満たされる

 

あれですね。

20代も後半に差し掛かり世間的な荒波から外れてきたせいでしょうか。

ある一定ラインを超えた時に物欲が消えました。

今流行りのミニマリストではないです。

憧れてるけど。

 

私の場合、Kindleを買った時にそれは訪れました。

もう好きな本はこれにためればいいし、無料で(Amazonプライム会員なので)本も読めるし、もう欲しいものは全部手に入れた、って。

 

 

おやおや〜って。

もっとしてみたいことやりたいこと、欲しいことあったでしょうよ。

 

でも満足しちゃった。

満足したと同時期に心身壊して仕事も辞めちゃった。

引越しも重なったから色々捨てちゃった。

 

暇になっちゃって鬱々しちゃうといけないから掃除を徹底的にしたり、お部屋の修理をお願いしたり、それでも暇だから散歩したり、本読んだり、ドラマ見たり、ヨガしたり。

めっちゃ健康的。

 

家綺麗だし、家事やってるし、自分偉い。

 

こんな風に仕事でも自分偉いって思えたらよかったな。

 

次仕事したら少しでも自分を褒めよう。

 

 

ちなみに一人暮らしで料理が苦手だから食欲も低下した。

けど、りんごの皮むきに挑戦してりんご食べたり、野菜を食べたり。

 

仕事してた時の毎日スーパーの惣菜orコンビニよりだいぶ健康的。

 

まあ、この機会にいらないものをどんどん捨てていきたいですね。

 

 

 

私を否定するんですか。

人って否定されたら辛い。

自己承認欲求という言葉があるとおり認められたり、褒められると嬉しい。

それが欲しい。

でもそれが与えられないと自分の不備、至らなさ、劣等感で悶々もん。

挙げ句の果てに生きてる意味なんてないと自分が自分の存在価値値踏みして否定する始末。

誰の価値観ですか、それ。

だったらいっそのこと全否定極めてみよう。

私を否定するんですか。

そうです、ってね。

 

それが出来たらもうこわいものなし。

自分は何者でもなく風のように雲のようにすいすい〜と生きていく。

なんなら自分は借り物とでも思ってみる。

人から借りたものなら大切にしてみる。

最低限の衣食住を用意する為に働いてみる。

壊れないようにメンテナンスもしっかり。

それでいてこの世界に存在している意味として何かできることを還元していこうかしら〜なんて。

 

 

有り余る時間の中でそんなこと思う。