本来無一物

本来無一物

時に極端に、時にふらふら〜と生きている日常を綴ってます。

苦しい。そんな日もあるさ。

またまた久しぶりの更新となります。

 

何が原因なのか去年から気分の浮き沈みの激しい流れが続いております。

 

大抵理由は仕事。

何故自分はこんなにも要領が悪いのだろうと悲しくなる。

負けん気や努力する姿勢はある。

というよりそれを捨てると本当に取り柄がない。

他者の冷静さや要領の良さを羨ましく思い若干嫉妬する。

私だって頑張ってるのに、なんて思っちゃって自己嫌悪。

 

今日ついに一緒に働く人から『これからはできてないこと言うから』と言われた。

私としてはもっと前に言って欲しかった。

新しい人が入ってわかりやすく戦力外扱いされるのは結構キツイ。

そんなプライド捨ててしまえ!

やる気だけ見せろ、と自分を奮い立たせるけどやっぱりへこむ。

呆れる前に注意してほしいと思うのは私の我儘なんだろうか。

こっちがどんなに歩み寄っても仕事中やちょっとした合間でも突き放されたらもうそこまでな気がする。

相手も注意をするのは嫌だろうし言いにくいと思う。

それはかつて人を指導したことが私にもあるからわかる。

でもそれこそ仕事のことを考えれば嫌われようがなんだろうが駄目なものは言うし、逆に円滑に進むようにコミュニケーションをとらなくちゃいけないと思う。

そのどちらが欠けても駄目だと思うのに、現実は欠けちゃうことばかり。

 

 

幻滅しちゃってるのは私の方かもしれない。

 

存在を無視されるのも頼りにされないのもお荷物になるのも嫌。

だから自分を変えなくちゃ。

 

いろいろと話を聞いてみると自分で思うより人を見れてないし、気遣いもできていないようである。

きっと私が気を使ってるのは自分自身。

見ているのも自分自身。

本心は別として、仕事だけでも他人のコピーを本気でしなくちゃいけない。

こう思えたのは上司の方が教えてくれたから。

相手の動きをよく観察して取り入れてみて、って。

私にはとてもわかりやすいたとえで、そしてその人は私が安心しやすい飴と鞭を使いこなす人だ。

 

 

人と自分の長所と短所は違うけど、残念ながら求められることは一緒で同じ分。

当然得手不得手があるけどそこを割り切れないのが社会なんだろうな。

そんな社会ですら受け入れられる、強くて広い心が欲しい。